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司馬遼太郎の風景5 オランダ紀行



 江戸時代に出島にいたオランダ人の人数をご存知だろうか。その数わずか十数人。「数十人」ではなく、「十数人」である。たったそれだけの人数で、鎖国という暗闇に閉ざされた日本に西洋文明という光を差込んだのだ。そして、オランダ語を学んだ数多くの人達から、経済観念と合理的な考え方が日本中に伝播されていった。
 出島にオランダ商館が建てられた17世紀前半は、オランダの黄金時代だった。世界初の株式会社であるオランダ東インド会社が世界中で猛威を振るい、少し前までスペインの属邦だったこの小国は、地球を掴まんばかりの力を持つようになっていた。
 しかし金融操作ばかりに気をとられて、工業を疎かにしたために国力は弱まり、賄賂が当り前となり政治も腐敗した。極めつけはチューリップのバブルで、間もなくそれが崩壊。破産者が街に溢れた。
 ちなみに本書には、チューリップの値段について以下のように述べられている。「最も有名で高価だったものは、センパー・アウグストゥスという名のチューリップです。ある人物は、この球根一つに家一軒と四頭立ての馬車、それに現金二千ギルダーを支払いました。」(p148)。当時の大工の労賃は一日一ギルダー。1998年時では2~3ギルダー出せば、一ダースの球根を買うことが出来た。それと比較すると、バブル期の値段がどれだけ馬鹿げたものなのか分かる。
 しかし、オランダは滅びることは無かった。それどころか司馬は、現在のオランダを「ガラスで作られた家のように透き通っていて」と形容している。充実した福祉と豊かな余暇、整えられた町並みと個人住宅。かつての軍事力や経済力があるわけではないが、オランダ人達は今、世界でも第一級の生活を満喫している。なぜこうした変化が可能であったのか、オランダ紀行の目的もその解明にあったはずである。
 司馬は、資本主義は人類に「自由」と「個人」という二つの贈り物を与えたという。これらはこれまでの歴史上に無いほどのエネルギーを持ってはいるが、扱いを誤れば悲惨な破壊をこの世にもたらす。オランダ人は、この二つを上手く扱う術を手に入れている。そしてそれは日本社会が模範とすべきものでもある。経済力のみを自らの指針とし、GDPを中国に抜かれることに戦々恐々とするよりも、実に江戸時代以来、もう一度オランダに習うことの方が遥かに重要度は高い。彼の国で行われているように、人を奴隷のように扱えばGDPも上がりはする。しかしそれでは国は疲弊し、廃れていく。目指すべくは市民社会の実現であり、「経済大国」ではもはやないのである。
 
 ベイラント現象という良く知られた説話がある。1578年、オランダがスペインからの独立をかけて戦っている最中、オランダ人ベイラントはこっそりと敵国にも武器を売っていた。彼はそれが明るみになって咎められても「我が国では営利の自由がある」とはばかって悪びれない。これは経済における、自由とは何かという一大命題となった。
 司馬はプロテスタンティズムとその倫理性を、オランダが保持する理念として非常に重要なものだと考えていた。『オランダ紀行』ではこう述べられている。「いまは宗教の時代ではないが、資本主義には強烈な倫理性が必要であることにかわりがなく、“ベイラント現象”をふせぐことが市場原理を守ることの第一条件であることにかわりはない。」
 司馬は「自由」には強烈な倫理を持って望むことが必要だと説いた。ベイラントがその反面教師である。それではもう一つの資本主義の贈り物である「個人」が持って望むべきものは何なのか。『オランダ紀行』にはその明確な答えは述べられていないが、本書の著者は、それは「個人の自立」なのではないかと推論している。これは福沢諭吉が『中津留別の書』で述べている言葉、「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし」を思い起こさせる。
 倫理と自立。これらを持ってオランダ人は資本主義に手綱を取り付け、市民社会の礎とした。そして司馬はオランダ人が詠んだある詩句にとりわけ感動を覚えている。
 「将来を樹(た)てないと、民族はなくなる」
900兆円の借金を抱え、問題を未来に先送りにすることで現在の生活を謳歌しているこの国には、こうした詩はかけまい。厳しい倫理性と独立の気概。もう一度オランダに習い、上辺だけのメッキのような、急いだ真似事としての偽りの制度の輸入ではなく、日本人の気質としてそれらを吸収すること。次の時代の課題がここにはある。
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司馬遼太郎の風景2 モンゴル紀行



 司馬遼太郎を作家にさせたのは、自身の戦争体験だった。学徒出陣で満州の戦車隊に配属された司馬は、なぜ日本はこれほど無謀で馬鹿げた戦争をするのか、理解することができなかった。幕末等、昔の日本人はそうでは無かったのではないか。22歳の時に抱いたそうした疑問に対する手紙が、後の膨大な著作として結実する。
 ちなみに司馬は、あの大戦に突入した原因に、日露戦争以降の軍人の「正直さの欠如」という理由を挙げている。日露戦争終盤当時の日本は、米も資金も弾砲弾も枯れ果て、這々の体だった。それ以上戦争を続ければ、待っているのは間違いなく国の破滅である。だが、日本はロシアの国内事情の悪化から思わぬ勝利を収めることになる。しかし軍部は騒乱時の困窮した状態を公表しなかった。すると日本人の中に、ロシアから土地や賠償金を奪うべきだとする議論と不満が高まる。さらに戦争に勝利した途端、軍部は自らの置かれていた貧苦の実情を、不正直にも無視するようになった。民衆の気運に巻かれ、愚かにも自らを大国ロシアを倒した一等国として認識するようになる。この時の自らの窮状は、外交政策を進める上での資料として使われることは無かった。この「正直さの欠如」が、日本を第二次世界大戦に突入させた大きな契機となったのだ。

 一方、モンゴルについて話を戻すと、司馬の蒙古についての著作には、彼を小説家に駆り立てたそうした日本の失策とは一歩、間がある。司馬は幼少の頃からモンゴルに憧れを抱いていた。『草原の記』にはこうした賛美もされている。

「モンゴル人は、(中略)奇跡的なほどに欲望少なく生きている。
 その欲望の少なさについて的確に説明しにくいが、かねがね彼らの存在そのものが詩であると私は思ってきた。」

 大平原とそこで生きる者は、司馬にとってロマンチシズムそのものであり、子供の頃から夢想していた「故郷」とも言える特別な場所であった。このためモンゴルに関する記述は、22歳の自分にあてた他の著作とは趣を異にする、幼かった自分への手紙なのである。

 遊牧民達はゲルという、すぐに移動させられる天幕に住んでおり、定住しない。隣の家との距離は、数十キロメートルもある。ゲルを訪問すると、その歓迎ぶりがすごい。道を聞くだけで招き入れられ、飲みつくせ、食べつくせの大接待が待っている。驚くべきことに、人のいないゲルでは、勝手に飲み食いしても良いのだという。そして夜は必ず泊まっていけと来る。恐ろしいまでの歓待ぶりだが、これも草原で生きていくためのやり方である。
 馬を大事にし、早ければ三歳から乗り始める。羊を客人に食べさせることを、最高のもてなしとしている。しかし動物は年に数えるほどしか殺さない。馬は殺さない。特別に大切にしているのだ。草と花の匂いが立ち込め、空気は肺を洗うように澄んでいる。遊牧民は年に三回しか休まない。正月とナーダムと馬乳の初搾りの日だけが休日になる。農業は行わない。表土が薄く、鍬で耕すと草原が傷付いてしまうからだ。『草原の記』にはこうある。

「農民が土を耕すことは、天のよろこぶところとされる。
遊牧民の天は、それを悪としてきた。」

あるいは農業が発達しなかったことが、彼等の欲を素朴なままにさせているのかもしれない。日本では弥生時代に入ると農業が発展し、耕作地をめぐって略奪が起こるようになった。それ以前、実に一万年の間続いた縄文は、弥生とは違い仲間と共に生きた時代だったのだ。進歩をまるで拒否するように、ずっと時間が続く。それが縄文と遊牧民との間で通底している。司馬がモンゴルに故郷を感じた理由は、太古の日本を感じていたためかもしれない。

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人間というもの 司馬遼太郎



 司馬遼太郎の既存の著作から名言を抜粋した箴言集。これまで司馬を読んだことがない人でも十分楽しめるが、既読者が記憶にある台詞を見つけた時、改めて迫られるその力に感動すら覚える。小説や随筆は、その流れに任せて読みがちだ。しかし本書では、一文一文がまるで動画から切り出された名シーンのようにクローズアップされている。そして、逐一これまでの自分とその文章とを対峙させるのだ。

「人は、その才質や技能というほんのわずかな突起物に引きずられて、思わぬ世間歩きをさせられてしまう」

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かってことが進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」『龍馬がゆく 三』

「人間、思いあがらずに何ができましょうか。美人はわが身が美しいと思いあがっておればこそ、より美しくみえ、また美しさを増すものでござりまする。才ある者は思いあがってこそ、十の力を十二にも発揮することができ、膂力ある者は我が力優れりと思えばこそ、肝の底から力がわき上がってくるものでござります。南無妙法蓮華経の妙味はそこにあると申せましょう」『国盗り物語 一』

 三つの文章を冷静に見ると、どれも常識から大きく外れている。才能があれば世の中を順風満帆に渡っていけると考えるのが世の常だし、志を貫ける人間など人類多しと言えど、どれほどいるのだろうか。また、思い上がりも程々にしなければならないと考えるのが、世渡りのコツだとするのが普通だろう。しかし司馬はそれらすべてにNOを突きつけている。そしてその言葉には人を平伏させんばかりの力があり、納得させられ、反論をする気すらさせられない。冷静に見れば極論であるにも関わらず、読後感は全くの正論という不思議な文章が集められている。
 普通の人では発することが出来ない、しかし人間が心の底で求めている言葉から生み出される勇気。司馬が放つ不思議な力を持つ文章には、そんな気概がある。この本に一生を左右されたという人がいても、何ら不思議はない。 

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司馬遼太郎の風景2 湖西のみち・韓の国紀行



 日本と韓国には深い溝がある。竹島問題や従軍慰安婦問題を見るだけでも、その片鱗をうかがい知ることが出来よう。河合隼雄が、両国は互いに心理学で言う「影」の関係にあると述べていたが、堅固で良好な関係を築くことは、両国の交流が急速に密になりつつある現在、難事ではあるが非常に重要である。
 中井久夫が述べた言葉に「人は自らと折り合いをつけられる程度にしか、他人と折り合いをつけることは出来ない」というものがある。あともう一歩成長するために、あえて「影」との関わり方を探ること。それが多文化世界が進展する現在、他国との交流を滑らかにする肝となって来ているのではないか。そのように思いながら、司馬遼太郎の韓国紀を読んだ。この中に、彼我のコンプレックスを見通すためのヒントを探したかった。
 司馬の韓国紀行最大の目的は、友鹿洞(ウロクトン)という人口六百人程度の小さな村を訪問することだった。豊臣秀吉が朝鮮ノ役(文禄・慶長の役)を引き起こした時、沙也可(さやか)という一人の日本人武将が儒教の礼儀正しさに惹かれ、朝鮮側に身を投じた。司馬はこの事実に大きな衝撃を覚え、その地に赴いたのだ。
 沙也可は子孫にこのように言い残している。「お前達は異国人だから、栄達を望んでこの党争に巻き込まれることがあってはならないよ。一所懸命に耕して、そして時間が余ったら勉強をして、人間らしく暮らしてくれよ」「党争」とは、政治家達が党派を組んで争った、出世競争のようなものだと思われる。当時の韓国では本当にこの争いが激しかった。そして子孫達は党争を避け、始祖の言いつけを良く守ることで、朝鮮ノ役から実に400年以上もの間、今も田を耕しながら素朴な人間らしい生活を続けている。
 沙也可の子孫達は、彼の地の人々と折り合いをつけるため、純朴さを自分たちの軸とした。始祖は儒教の精神に魅了されることで、投降を決意している。
 影でありながらも、そこには引きつけられるような魅力を見つけることがある。さらに、人が持つ誠実さは、長きにわたる交流を可能にする。魅力を持つ人達と心ある交流を続けられれば、例え互いのコンプレックスを刺激し合う間柄にあったとしても、それを克服するための力も生み出されよう。「魅力の発見と誠実さ」それが本書が提示する影とのつきあい方なのではないかと感じた。

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南蛮のみち




『司馬遼太郎の風景3』より

 フランシスコ・ザヴィエルの出生地バスク。本章はスペインとフランスにまたがる山間地方、バスクの紀行記である。掲載されている文章も写真も美しい。この章では現代日本との対比の記述はほとんど無く、純粋に紀行記として楽しむことが出来る。ちなみに「南蛮」という言葉は南蛮揚げ、といった食べ物から現代日本にもよく浸透しているが、具体的にどこを指すのか、知らない人も多いようだ。日本において南蛮という地域はスペイン、ポルトガルのことを差し、同時にカトリック教徒(キリシタン)の含みを持つ。また紅毛(こうもう)という地域はオランダで、かつてプロテスタント教徒の意味合いを持っていた。豊臣期末から江戸期においてはキリシタン禁制のため南蛮は日本と交渉を持つことはなくなっていたが、紅毛がヨーロッパとの架け橋になった。
 司馬遼太郎は当初、自分の守備範囲を東アジア(中国・朝鮮半島・モンゴル等日本を取り巻く地域)とし、それから外れる地域については頑なにものを書こうとはしなかったという。例えば、ベトナムは守備範囲内だがインドは範囲外とした。しかしこの『南蛮のみち』では、そんな司馬が初めて自分の守備範囲以外に目を向けた。そうした意味で記念すべき記録である。
 司馬がバスクを選んだ理由は、バスクと日本との類似性にある。バスク地方は周りを山に囲まれた陸の孤島であり、海に囲まれた日本と同環境にある。ヨーロッパにあるにも関わらず、バスク語はウラル・アルタイ語族の言語と似た構造を持ち、そのため日本語とも似ている。また日本人にとって最も印象深い南蛮人が、バスク人のザヴィエルだという不思議も、司馬をバスク紀行に駆り立てた。司馬は、なにか突然自分と似た人と遭遇してしまったようなような、不思議な感覚をバスクから感じていた。
 日本では古くから、この世には、本朝(日本)、震旦(中国)、天竺(インド)、という三つの文明圏しかないという思い込みがあったという。そして「その三国世界観の壁を破ってとびこんできたのが、南蛮というものであった」『南蛮のみちⅠ』。司馬が、既存の世界を飛び越えた最初の一歩として南蛮を選んだことも必然かもしれない。
 本書でとりわけ印象的で、尊敬の念を抱かせるのが、ザヴィエル等、宣教師達のありかたである。当時のヨーロッパではカトリックの聖職者の堕落ぶりが社会的に糾弾されており、ルターの始めた宗教改革の嵐が吹き荒れていた。そんな中、カトリックを浄化すべく設立されたのが少数精鋭のイエズス会だ。設立時のメンバーはわずか6名。
 創立者であるイグナチオ・デ・ロヨラは聖バルブ学院でザヴィエルと同室になった。当時ロヨラは38歳のみすぼらしい身なりの老学生だったという。ザヴィエルはその時まだ世俗的であり、かつ将来を嘱望される学生だった。ロヨラはしかしザヴィエルの資質を見抜き、実に4年もの歳月をかけ、彼を真の聖職者たる人間に変えていった。
 「かれがめざしたのは、自分自身がまじめになるということだった。さらには、少人数でもまじめな者を集めるということであった。」『南蛮のみちⅠ』
 ロヨラやザヴィエルの意志はその後も受け継がれ発展を続けた。現在のイエズス会の会員は112カ国で2万人いる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものだという。私はこの険しい聖なる道に歩み出す人々に対して、尊敬の念を抱かずにはいられない。

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