FC2ブログ

プロフィール

松井勇人

Author:松井勇人
学習塾omiikoやってます。このリンクからホームページいらしてください(o^―^o)ニコ

起業家心理の研究もしてます。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

google analytics

google analytics

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

藤枝MYFC社長、小山淳。レアルを超える世界一のスポーツ企業を射程に収める男の物語

 意識の高さには驚かされる。1986年メキシコワールドカップ、マラドーナの活躍を見た少年は、父親にこう言った。「僕、日本サッカー協会の会長になる」。小学校4年生の時だ。夢見る子供の頃の覇気は今も健在。怪我をするまで世代別の代表に選ばれ続け、早稲田閥のサッカー協会でのし上がるために大学は早稲田。ゼロから立ち上げたクラブは5年でJのクラブへ。売上720億円のレアルマドリードを超える、世界一のスポーツ企業を本気で目指す。あまりの真剣な語り口と躍進する実績ゆえ、「堅固な組織づくりを通じて協会長になるより大きな夢を実現する」という大見栄さえ射程圏内だと感じさせられ、聞き手たちは彼の抱く景色を共有したくなる。

 藤枝MYFCは2009年に創設。グループ全体の売上推移は創業2009年期、800万円、利益は赤字。2013年期は3,5億。14年期は見込み5,2億、15年期は7億超を見込む。スポンサー133社、株主353社(2014年9月現在)。オーナー会員が協力してプロクラブを運営するスポーツコミュニティーだ。大口スポンサーは作らない。あくまでも参加型コミュニティーをつくるためのクラブである。

 小山淳は1976年生まれの37歳。静岡県藤枝市出身。3歳からサッカーを始め、高校は名門、藤枝東へ。近所には元日本代表が20人ほども住んでいるサッカーに恵まれた土地。小学校から5メートルの近さに藤枝東の練習場があり、子供時代、選手たちが相手をしてくれた。幼いころから優れたプレーヤーに囲まれたこの上ない環境で育った。

 父親は静岡新聞社に勤務。寡黙な人だった。本ばかり読んでいて口論になったことなど一度もない。しかしその本が小山に与えた影響が良かった。よく読んだ本は国をつくることを主題にした本。戦国時代の三英傑や三国志。企業を起こし、人をまとめる知恵の土台はそこから学んだ。父の影響を受け、現在も年間300冊以上の本を読む。

 中学一年の時、世代別日本代表の副キャプテンとして世界大会で優勝を飾る。同期には中田英寿や宮本恒靖がいた。中田は当時、パワーはあるがテクニックのない選手。小山には逆にテクニックがあり、そうした自分たちの器についてよく中田と話しあった。高校の一つ年上には山田暢久がいた。浦和レッズで大活躍する山田を見て、小山は「あいつに出来るのなら、自分にも出来るはず」と自信を深める。卒業時には3つのJクラブから誘いが来たが、父親がこれにストップをかける。「日本サッカー協会は早稲田閥だ。会長になるなら早稲田に行け」。高校で全国優勝をしていた小山はどこの大学にも行けると言われており、筑波と迷いはしたが早稲田に進むことにした。

 順風満帆な人生だったが、大学一年の時に骨折をする。監督は厳しく、一度休むと1軍の人間でも6軍に落とすほどの人だ。怪我を押し、試合に出場したがそれが裏目に出る。手術をしたが失敗。その失敗は小山に告げられなかった。リハビリは長く二年間に及んだ。テレビでは中田英寿や山田暢久が大活躍をしている。悔しくてしょうがなかった。リハビリ後も痛み止めを打ちサッカーに臨んだが、かつての自分はいない。メディアの人間は平気な顔で「小山君下手になったね」と言葉を投げる。人は冷酷だと思った。

 そんな時、代表のドクターに手術を持ちかけられた。それは小山にサッカーを諦めさせ、自らに追悼の仕事をさせるための手術だ。患部を開き、何もせず閉じる。そして、もう第一線で活躍することは無理だと告げられた。サッカーに全人生をかけてきた小山には、他に生きる術がない。病室には慟哭が響いた。

 大学を卒業し就職する道もあろうと思うが、小山は中退し、どこかのクラブに入るつもりでいたため単位を取っていない。4年間で120単位が卒業の条件の所、それまでの3年間で取得した単位数はわずか12。父親に相談し、卒業のために続けて4年間の猶予を言い渡されるが、翌日退学届けを出した。退学届けはすぐに受理されたという。

 その後、どうやってこれから生きていくのか考えることになる。サッカーで海外に出ていたため、世界が身近だった。各国を見て回ろうと思った。まず寸又峡でアルバイトをし、120万円貯める。その後、世界33ヶ国を放浪する。

 ジャマイカでは強盗にあった。写真を撮ってみろと言われ撮ると、因縁をつけてくる。クレジットカード等大切なものは靴下の中に隠し、財布の中には一万円程度しか入れていない。強盗に財布を見せ、これがないと今日の宿代にも困ると交渉すると4000円だけ奪っていった。しかし彼らにはこれ以外生きる手段がないのだと小山は考える。バイトで貯めた120万円さえ、彼らにすれば手の届かない金額だ。日本で生まれた運の良さを噛みしめる。確かに夢破れはしたが、まだ持っているものがある。

 ルーマニア、ブタレストでも突然夜盗に遭遇し頭を殴られる。その時には日本で生まれたこの運勢を一分一秒でも無駄にしたくないという思いが芽生えていた。そして25歳、起業。

 小山の心に映った世界は、サッカーの才能以外に与えられた天からの贈り物を明瞭に描き出し、第二の人生へとバトンを渡す。世代別一流選手に選ばれ続けた魂は、放浪の末、世の中に新しい価値を生み出す情熱を生起させた。その志は躊躇なく小山を起業に走らせる。

 始めたのはパソコンスクール。24歳の時に一年だけ社会経験をしている。その会社がパソコンスクールだった。それを自分の理想を追求した形で始めたくなった。しかし当時の小山は、パソコンをよく知らなかったのだと自ら認める。東京の専門学校に通いながら業務をこなす。いい加減なものだが、良いことも沢山あった。当時の顧客は会社の経営陣。会う前にはかなり勉強をし、理論武装していく。すると話が盛り上がり、そこから多くを学ぶことが出来た。

 少し経ち、レッズの山田暢久のホームページを作成しようと思い立つ。浦和の関連会社の人々の目に留まり、仕事の話が舞い込んでくると見越してのことだ。ただ、山田がホームページに興味がないことはわかっていた。そこで彼の父親をターゲットにする。熱く語り、父親から山田に話を持ち掛けてもらうという策略を練る。計略は奏功する。作成費は無料だ。狙いは的中。東京の会社から引き合いが来る。静岡では100万円で高いと言われていた代価は、東京では300万円でも安いと言われる。静岡の会社を事業譲渡し、東京で勝負をかけることにする。浦和からのコネクションもあった。

 一方、それまで数年、サッカーを見られずにいたのだが、代表で活躍する山田暢久を見ると思いが再燃する。浦和レッズを見てその凄さに感動もした。プロクラブが地域経済や人の心をつなぐアイデンティティやシンボルとなっている。Jリーグのクラブが日本中の地域の支えになり得ると本気で考えるようになった。例えば、売上高2億円程度のJ3のクラブは、商圏人口30万人を抱く街ごとに一つ作ることが出来ることを藤枝MYFCは証明してきた。今の日本であれば100ヶ所は作ることが出来ると小山は踏んでいる。

 MYFCの、地域を活性化させる商売も魅力的だ。焼津の株式会社いちまる、というスポンサー企業が4000坪の土地にサッカー練習場を造った。これにも小山の狙いがある。その土地は沿岸部に位置するが、3.11以降、沿岸部の土地は活用が難しくなっていた。固定資産税も大きく圧し掛かる。そこでいちまるの傘下、いちまるホーミングに建設会社の差別化のため、サッカーグラウンドを作らないかと持ち掛けた。Jのクラブへの施工実績があれば、大きなブランディングとなる。さらに沢山貼り出すMYFCのポスターにその事例を載せたことから、通常事業であるリフォーム等の注文も増えていった。大きくかかった施行料金も数年でペイする計算になるという。練習場の周りには選手やMYFCの社員たちが集まり、スポンサー企業の店「富士屋」でスポンサー企業「カネジュウ食品」の生産する味噌「禅」を購入する。経済効果も決して少なくはない。地域のハブとしての歩みは着々と進んでいる。

 キッズスポーツスクールも好調だ。創業4年で2620名の会員数(Jのスクールでも通常1000人程度)。業界ナンバーワンの成長率を誇っている。選手のうち9人が社員だが、彼らにキッズスクールの先生になってもらっている。すると一人当たり、人件費をはるかに超えた売り上げを持ってくることになるという。これは通常のスポーツクラブが選手の年俸にあえいでいるのとは対照的だ。

 実はサッカー選手というのは一日数時間練習するのみで、かなり時間がある職業だ。その時間があるうちに、セカンドキャリアの形成を促している。優秀な選手を社員にし、サッカーを引退してもMYFCの社員でいられる環境をつくった。これは、経営を安定させてクラブを強くするという会社の信条に則っている。これもクラブが強いことで経営が安定する通常のチームとは異なる方法だ。

 近代スポーツは19世紀のイギリスで確立された。人材を遠方に派遣し、リーダーシップを取らせるための予行演習を目的としている。猛烈にスポーツに打ち込んだものであれば、それだけでリーダーの資質があると小山は語る。サッカーで培われた指導力と戦略性、そしてたぎるような野心。それは今、小山のもとで花開こうとしている。スポーツの力を信じる意思、自らの不遇と折り合いをつかせたその物語、そして多くの人々からの支持を受け、地域の誇りを作り出す心の核として藤枝MYFCは昇華していく。

株式会社 藤枝MYFC 代表取締役社長 小山 淳 氏(こやま じゅん)(敬称略)
スポンサーサイト



オウケイウェブ

オウケイウェブOKWave代表 兼本 謙任(かねもと かねとう)さんのケース

「思い」を組織に結実
~コンプレックスとの格闘から生み出される新しい世界~


紹介
 「OKWave」( http://okwave.jp/ )は、2000年1月にスタート、株式会社 オウケイウェブが運営する「Q&A」の形式を使ったコミュニティーサイトだ。参加するためには会員になる必要がある。2011年2月現在、会員数は190万人以上、過去にやりとりされた2400万件以上の質問と回答を参照できる。

 例えば大手ポータルサイト「goo」でも採用されている。ロボット型検索エンジンは非常に便利だが、その一方で不必要な情報も多量に取り込まれており、本当に重要な情報を見つけ出すのには手間がかかる。こうした時活躍するのがOKWaveのシステムだ。投げかけられた質問に精通した回答者が、その問いかけに答えてくれる。人間を介して発見された情報には融通が利くものが多く、利用者はロボット検索とは一味違う情報を活用することが出来るのだ。

 このシステムは代表者の想いが具現化したものとも言ってよく、彼の壮絶な半生抜きには語ることは出来ない。以下は株式会社オウケイウェブ、代表取締役社長の兼元 謙任(かねもと かねとう)がOKWaveを創業するに至った経緯である。愛知県立芸術大学出身、昭和41年7月生まれ。彼の発想と行動の原点を探る。

幼いころの思い出

 不思議な運命を背負っているのかもしれない。幼少時から体が弱く、入退院を繰り返していた。小児喘息になったり、筋力がなくなったり、昏睡状態に陥ったり。中学生にもならない時から、死ぬことしか考えていなかった。病院通いを強いられる中、兼元のことをずっと見ていた老婆がいた。そして彼女からこう宣告される。
「あなたは前世で人を沢山殺している。それも酷いやり方で。今はその償いをしている時。病をわずらい、針をさしたり、メスを入れられたり・・・」

この瞬間、さらに深い落胆に襲われ、もう自殺が避けられないように感じた。老婆は話を続ける。

「でもね、この試練はあなたの一生のうち、前半で終わる。後半は人のタメになる良い行いをするから、今は決して自ら命を絶つなどということはしてはいけませんよ。」

 この話が兼元に与えた影響は大きかった。得体の知れない恐ろしい話ではあったが、何とか生き抜く決意を固めることが出来た。そして25歳、病気は嘘のように治まり、兼元の活動に支障をきたすことは無くなった。そこからの余命は25年だけかもしれないという、予言が成就する可能性を残して。

ジョン・レノンとの出会い。

 兼元がQ&Aを大切にしたいと思った契機は、ネット上での強烈な失敗の体験にあった。ある時、インターネットを始めようと思い立ち、本を読んだ。そこには「インターネットはパラダイスである」と謳われていた。「質問を投げかければ、誰もが懇切丁寧に答えてくれる。いつのまにか誰もがプロフェッショナル並みの知識をもつことができる。」

 ネットの経験がなかった兼元はこの話を純粋に信じてしまう。そして、あるサイトで質問する。「インターネットで質問すれば、デザインとコンピューターを掛け合わせて何か面白いものを作るヒントを得られるのではないか」という思いからだ。しかし、これが思いがけないトラブルを引き起こした。

 「今思えば、夢物語を信じてしまっていました。やはり実際のネットはそうではありません。言い方が悪かったのだと思うのですが、回答を寄せてくれるはずの方々は冷たかった。」

 彼らは「マナー」がなっていないとして、彼に総攻撃を加えた。質問に対する答えのかわりに、「利用規約を読め!」「アーカイブを見てから質問しろ!」。初心者が対応していることなどお構いなし。面白がって叩いていた者も当然いたはずである。結局目的は果たせないまま、そこから身を引かざるを得なくなってしまった。

 こうしたトラブルを経験した後、「この仕組みは少し変なのではないか。デザインが得意な人間でも、コンピューターのコミュニティーに参加して何らかのインスピレーションを得ることは必ずある。」と感じた。しかし、跳ね返り者の性格が災いしてか、そんな思いを抱きながら会社を転々とする。そしてついには浮浪者のような生活を、その後実に2年以上もの間余儀なくさせられた。しかし、この間にもネットのコミュニティーについていろいろな思いを巡らし続ける。そしていつしか、自らの理想となるサイトを、自分で作りたいと思うようになった。

 不遇の生活を送りながらも、考えを温め続ける。「専門外のコミュニティーで質問できる場を作れば、きっとすごいアイデアがたくさん生まれてくる。そのためには、Q&Aを並べて問いと解答を俯瞰する場所を作りたい。自分の専門外のコミュニティーで何かを聞いても、他にある、自分の専門の場で解答を書いて貢献すれば、フリーライダーにはならない。」

 そんな思いをずっと抱いていると、不思議なことがあった。兼元は、ジョン・レノンの‘イマジン’を好んで聞いていた。「野宿生活をしていた時には心の支えのように、本当に何度も繰り返し聞いていました」と彼は語る。するとある時突然、外国人のプログラマーが現れ、彼の話を聞き、アイデアを実現させるプログラムを無料で書いてくれることになった。そのプログラマーが、ジョン・レノンそっくりだった。それから彼のアイデアが現実に動き出すことになる。

心の傷と企業

 起業家が自らの夢を実現しようとする時、周囲からまるで偏執狂のように見られることがある。起業家の偏執性は一見病的だが、自らの夢想的な目標に対して愚直と言えるほどの誠実さを見せる。兼元の場合、コミュニケーションに対して壮絶なこだわりを見せている。

 それにもかかわらず、彼のコミュニケーションは不思議なほどうまくいかなかい。上のケースには書かれていないが、学生時代には「グローバルブレイン」というデザイナー集団を立ち上げている。

 しかし、これからという時、根も葉もないうわさが流れた。「あいついろいろやっているけど、あそこまで一生懸命にやるのは何か変じゃないか。」「グローバルブレインが世の中に出たら誰が得をすると思う。兼元だよな。だからやっているんだよ。僕らは利用されているだけかもしれない」。仲間のために身を削る思いで10年間頑張ってきた。でも、疑われてしまった。教授との関係も良くなかった。大手自動車会社に内定が決まっていた卒業発表直前の夜、電話がかかってくる。「お前だけは絶対に卒業させない」。

 そこからOKWaveを設立するまでは上の通りだ。その過程でも、共感を得ることに大変苦労している。どれほど自分の夢に誠実であったとしても、気づくことの出来ない自らの落ち度とは付き合いざるを得ない。

 異彩から生み出された閃きをひっさげて、みなぎる自信は、彼を精力的な活動へと導いた。だが清新すぎる活躍は不信を呼び、いつしか集団の中の異物となってしまっていた。仲間は去って行き、悩み、抑鬱的になる。解決へと繋がるきっかけは、神の啓示を思わせる「ジョン・レノン」との衝撃的な出会いだった。兼元には‘コミュニケーション’というどうしても譲れない拘りがある。だからこそ人が集まった。だが、だからこそ自殺をも辞さない激烈な挫折に直面させられた。それでも諦めない。そして紆余曲折を経て、彼は自らの思いを見事な企業へと昇華させる。まるで異物の痛みを和らげるために真珠を育てるかのごとく、彼は心の異物を中心に、強く秀麗な組織を創り上げた。

ベンチャー企業創出支援

 「起業家が経験した創業以前の深い体験は、その後の企業文化に大きな影響を与える」とする研究が近年数多く行われている。こうした‘起業家醸成期’を精査すると、時に解決不可能に見える困難や病気、さらに無気力状態までもを窺い知る事がある。起業家はそのような苦境を克服し、自らの価値観を見い出し、事業を魅力的なものに仕上げている。

 単に成功しそうなアイデアを出すだけならば、誰にでもすぐに出来る。しかし、それでは偏執症と思われるほど事業にのめり込む事はない。一方、運良くのめり込める対象を見つけたとしても、そこには大きな困難が付きまとう。革新的起業の代表とされる3Mでさえ、そのような人はいぶかしい目で見られるのだという。また、熱中している対象は、兼元の場合のようにコンプレックスとの格闘そのものかもしれない。そこに正常でいられる保証はない。

 ベンチャー創出のためにはこの過程を支援する必要がある。そのためには、起業家の苦悩を観察し、そこに光をあてる作業が肝要となる。そうする事で、困難にぶつかった者をサポートするノウハウを整え、勇気付けの仕組を作ることが出来る。

 決して見逃してはならないそのための基盤が存在する。それは‘安全の確保’と‘自らを映し出す鏡’の存在だ。兼元の場合、老婆から教えられた不思議な物語が「自ら選ぶ死」という危険から彼を解き放った。うかがい知る事が出来ない自分の落ち度を、離れていった仲間達が映し出した。落胆し、何も手に付かない時期も続いたが、そうした苦境の中から紡ぎ出した使命感が彼を何度も鼓舞し、今、ビジネスの世界で仲間とともに飛躍の只中にある。

 「夜と霧」の作者、ヴィクトール・フランクルは、「(こうした)自分だけに固有な使命の体験ほど、人間を、自らを超えて高く引き上げるものは無い。」と述べ、自らの強制収容所から生き残った体験と観察とをもって、世に例証した。人生から投げかけられた問いに対して答えを出した時、受難の最中に見つけた光明に向かい快哉を叫ぶ瞬間、天命の啓示を受けたともいうべきその体験が、自分のなすべきことに没頭する真の人生の産声である。兼元の使命発見の過程は苦境の只中にいる者たちを強力に励ますストーリーとなり、彼らを勇気付け、世の中を賦活化させていく力になる。(敬称略)

テーマ : 経済 - ジャンル : 政治・経済

K‐sports icons

 スポーツ選手のコンディショニング・マネジメントや、スポーツチームの運営を手がけるK‐sports icons。社長の中村氏は運の強い人だ。
 学卒後、高校野球部コーチを経て、95年渡米。IPSBにおいて体調管理論を学んだ。あの長谷川滋利やジアンビー兄弟など、数々のメジャーリーガーのコンディショニングコーチを務め、その手法が一流であることを証明してきた。
 渡米した時期が良かった。95年といえば野茂英雄がドジャーズに入団した年。日本のマスコミにはまだメジャーリーグに明るい人材が乏しく、中村は彼らの面倒を良く見ることになった。これが日本に帰って思いもかけない繋がりに発展する。漫画家のジョージ秋山氏との関係もそうした中で生まれた。当社ホームページには秋山氏が描いたシンボルが飾られている。営利企業に対して初めて描いたものになった。
 01年、河合楽器野球部は都市対抗野球で悲願の初優勝を果たした。だが、同年11月、会社の業績不振から休部に追い込まれる。しかしその後すぐの02年3月、同部の選手を中心に、ケイ・スポーツ・ベースボールクラブが設立される。今でこそ多くの協賛企業に支えられているが、設立当初は信頼を得られずに苦心を重ねた。「河合楽器ですら支えられなかったチームを、なぜ創業間もない企業が支えられる」。創業間もない企業には、そうした批判が付きまとった。
しかし"野球が好きで、市民に愛されるチームを作りたい"という中村の思いはとても強い。数々の'現実的な意見'を浴びせられても、その気持ちが揺らぐことは無かった。さらに、"野球を続けられる場"を与えられた野球選手の思いもとても熱い。これまで程、安定した職場ではなくなり、働きながら練習をする「二足のわらじ」を強いられたが、多くが野球を続ける道を選んだ。
スポーツチームの運営手法も、確実に企業のスポーツからクラブチームの時代へ傾き始めている。時代の流れとチームの野球への思いが実を結ぶ。2年、3年が経過し、事業が軌道に乗り始める。支援する企業も着実に増加して来た。
 「ブランドは時代の黎明期に確立され易い」という研究がある。バカラは1855年第二回万国博覧会で金賞受賞、ルイヴィトンは1867年のパリ万国博覧会で銅賞。ウィンドウズもグーグルも各時代の黎明期に勃興している。「国」の境界が薄くなり「地域社会」が産業経済の中心になりつつある現在、当社の活動の意味は捉えられる以上に重いのかもしれない。

テーマ : 経済 - ジャンル : 政治・経済

ケース:イケン技研

「石が好きだったね。」創業者藤井健二氏は少年時代、天竜川上流にまでよく足を伸ばし、そこに転がる石を恰好の遊び道具として過ごした。昭和20年代、まだ環境問題など叫ばれておらず、豊かな自然を当然のように享受していた時代だ。幼い目にも美しく映った風景は、知らず知らずのうちに心に刻み込まれ、いつしか氏の原風景となっていた。
 主力商品インパル・ウェイブ(IW)は石で出来ている。各種燃料を特殊な鉱石で変質させ、燃焼効率を向上させる。そうすることでNOx、PM、CO2、黒煙などを同時に抑制出来るのだ。その効果は、公的試験機関で実証もされている。現在、理論的な解明を行うために、欧州最大の技術移転機関、独シュタインバイズ財団に委託し結果を待っている。
 NOxPM法の制定により、首都・関西圏と愛知周辺において、基準値をクリア出来ないものは車検が通らなくなった。中小の運送業者などは、手持ち車両の車検が通らなければ全てを買い換えなければならなくなり、そのままでは倒産を余儀なくさせられる。IWは、こうした事態を回避させる力さえ持っている。
 しかし、そんな革新的な製品であっても、世に出るまでには相当な紆余曲折を辿った。元々藤井氏は家具製造を生業としており、車両機器に造詣が深かったわけではない。また、いわゆる最先端の研究所に勤務していたわけでもない。そんな経歴が仇となったのか「良い製品が、良い製品であると認められるだけのことに、これほどまでに抵抗があるものか」と口惜しい思いをしたこともある。
だが、日本に比べるとドイツの反応の速さには驚かされたという。良い物と判ると、すぐに引き合いがあった。日本電産や京セラを筆頭に、国内ではなく海外で先に名を上げることになった企業は少なくない。実績のない企業の製品に対し、偏見を持たず適切な評価を下すことに関しては、あちらの方が遥かに進んでいる。
幼い頃に形作られた原風景は、使命感となって藤井氏を突き動かした。気が遠くなる程の試行錯誤を経て一つの製品としての結実を果たす。確かに、ベンチャー企業がもたらす新しい活力は、ともすれば斬新過ぎて理解しがたい一面を持つ。ただ、そんな純粋な製品を心ある態度で迎える器量があるのであれば、それは評価する側にとっても革新をもたらす原動力となり得る。これは起業家が日本において評価される一つの儀表であり、他企業が世に出る折にも参考となる普遍性を備えている。

テーマ : 経済 - ジャンル : 政治・経済

| ホーム |


 ホーム